かつての中国は「士」と呼ばれる知識階級が社会を動かしていました。紀元前の時代より郷挙里選によって知識人が官僚に抜擢されるシステムがあり、中世以降は「科挙」と呼ばれる官吏登用の試験制度が生まれます。この科挙によって出現した士大夫階級による政治を、俗に「文人政治」と呼んでいます。科挙に及第するためには厖大な儒教経典を暗誦し、平仄や押韻といった規則にしたがって詩文を書く訓練が必要です。こうした知識人が余暇に琴・碁・書・画を嗜み、中世以降、たとえば唐の王維のように画家として名を残す者も出てくるようになります。つまり文人というのは士の別称で、彼らが余暇を過ごしている時の姿なのです。 |
中国絵画史上では一般に北宗画(ほくしゅうが)と南宗画(なんしゅうが)とに大別され、宮廷画院を中心とした北方系の山水画様式を「北宗画」(または院体画)というのに対し、在野の文人画家による山水画様式を「南宗画」と呼んでいます。董其昌(とうきしょう 1555-1636)の説によれば、南宗画は唐の王維(おうい 699-759)に始まり、五代南唐の董源(
? -962?)や宋の米芾(1051-1107)、元末四大家(黄公望・呉鎮・倪瓚・王蒙)を経て、明の沈周(1427-1509)を祖とする呉派に至る文人の山水画様式をいいます。この絵画様式が来舶清人によって江戸時代の日本へもたらされ、現在「文人画」と呼ばれています。 文人画の世界では写意性が重視され、真景(実景)を画くことはほとんどありません。ここにいう「写意(しゃい)」というのは、形を主とせず、対象の精神や画家自身の精神を表現することをいいます。文人が旅をしたり古人の書物を読んだりしているうちに、山水の風景が胸中に宿るようになり、彼らはそれを画いているのです。文人画はそもそも儒教・仏教・道教という三教交渉の中に生まれた藝術で、江戸時代の文人画家の多くは儒者ですが、その画題や画意は儒・仏・道混淆の世界であることにも留意が必要です。 日本では江戸時代中期、祇園南海(ぎおんなんかい 1676-1751)や柳沢淇園(やなぎさわきえん 1703-58)の頃から池大雅(いけのたいが 1723-76)や与謝蕪村(よさぶそん 1716-84)の頃にかけて盛んに画かれるようになり、化政期(1804-29)以降、浪華(大阪)や平安(京都)を中心に文人の結社が誕生し、画譜や画論も数多く出版されるようになります。この文人画家の活動の最盛期に核となったのが頼山陽(らいさんよう 1780-1832)を中心とする文人グループ「笑社(白雪社)」でした。彼らの交遊は崎陽(長崎)・豊後(大分)・浪華・平安・尾張(名古屋)から北国街道(北陸)・江戸(東京)・奥羽(東北)に至る文人のネットワークを形成し、日本各地へ書画や煎茶の文化が拡がっていったのです。 |